要旨

 ディスコミュニケーションは、これまで、記号を使用したコミュニケーションの失敗という文脈において伝統的に定義されてきた。具体的にはアリストテレスに端を発する論理的誤謬論や、シャノンに始まる情報理論は、個々のディスコミ現象を研究する論者達によって、ディスコミ現象を規定する一般的枠組みとして利用されてきている。この立場をさらに推し進め、一般的な社会的ディスコミュニケーション論の必要性をとく、ハンブリンや吉田民人のような論者もある。
 しかしながら、文脈から切り離された情報を認めず、誤謬を含めた知識全般を社会的文化的産物であると把握する、知識社会学の立場は、以上のような見解を、否定してきた。彼らによれば、嘘やうわさを真偽という観点から把握することは、真理や正確な情報との偏差という形式的な観点から、うわさや嘘を誤謬、雑音として把握することであり、これは誤りである。なぜなら、完璧な真理や完璧な誤りなどというものは、知識の社会的な本性上ありえず、嘘もうわさも一種の補助的な自己修正的なコミュニケーションとして扱われることになる。すなわち、一般的な社会的ディスコミュニケーション論は、空中楼閣にすぎないというのが、この立場である。
 最後に、ディスコミュニケーションとは、その中に潜む誤謬条件によって規定され発見されるような状態ではなく、むしろ誤謬条件というカテゴリーでもって、なんらかの問題を孕むコミュニケーションを定義し、対象化するメタ・コミュニケーションではないか、という仮説を提示うる。この立場からみると、ディスコミュニケーションとは、社会的文脈に規定された知識であると同時に、形式的な記号システムがもたらす誤謬条件というものがコミュニケーションをなす当事者達に共有されていないと、発生しえない現象ではないか、と示唆されることになる。

キーワード

誤謬 ディスコミュニケーション メタ・コミュニケーション 知識社会学 構築主義 構成主義